日本タングステンの歴史

第2回:日本タングステン合名会社の誕生

タングステンの様々な新製品を開発するという夢の実現のため日本冶金を辞めた秋山氏。今回はそこから実際に日本タングステンが設立された当初までを追いかけます。

秋山氏はタングステンの新会社を設立することについて、佐賀の同県人である戸上電機製作所の戸上信文社長に事業計画を相談したところ、同氏の快諾を得ました。そして諸々の準備を進めることになったのです。

工場設立にあたって秋山氏は、タングステンの精錬に必要な塩酸、アンモニア、水素などを比較的容易に入手できるところから、小倉または福岡に工場を建設したいと考えていました。また、タングステンの精錬・加工には、多量の電力を必要とするため電力料金は重要な用地選定の要素でした。当時福岡市には九州水力電気と東邦電力がありましたが、東邦電力には同郷の佐賀県人の西山信一専務がいて、通常の半分以下の特別料金で提供してくれるというのです。こうなると工場用地は東邦電力の供給区域内でないと困ります。結果、工場建設は福岡市住吉401番地に決まったのです。

また、工場の主要設備が通常の10分の1以下の費用で手に入ったのも追い風でした。当時はまだ世界恐慌の最中で、銀行の差押え品としてアメリカ製のタングステンの製造設備一式が引き取り手のないまま倉庫に放置されていたのです。この情報を秋山氏や戸上氏は知っていて、諸経費含めて1万円足らずで購入することができました。

工場の建設は昭和6年3月に着工し、製造設備一式は戸上電機の社員が設置してくれました。そして、4月1日に戸上氏を代表社員として日本タングステン合名会社を設立。一方で、日本冶金から秋山氏を慕って辞めてきた人たちが合流し、約25名の従業員が集まりました。そして8月から工場が稼働に入り、月末には当社初のタングステン線が生産されたのです。

1931年 創業当時の工場全景(福岡市住吉)
1931年 創業当時の工場全景(福岡市住吉)